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最後のマルマル

アニメ・ゲーム・声優などに関する我楽多雑文。研究者兼大学講師をやってます。

FF15クリア後感想

 

ここ最近、感想というものを綴らなくなってきた。
仕事柄、書評を頼まれることが多くなったが、これから書く文章は書評や批評とは違うものだ。
感想とは、個人的には戯言の垂れ流しだと思う。
なので、これから垂れ流す「FF15クリア後感想」は批評でも批判でもなく、時代に取り残された懐古厨たる一FFファンの戯言である。

 

※以下、ネタバレ感想を含みますので未プレイの方は注意!

※自分中心な懐古厨の文章が不快な方も注意!

 

 

 

 

FFファンとは言っても、客観的に言えばライトなファン層なのだと思う。
小学生の時に、FF5FF6ファイナルファンタジーデビューを果たし、本格的にFFの虜となったのは、中学生の時にプレイしたFF8だったように思う。FF8も未だ評価の分かれる作品だと思うが、その頃の私は数多とある素晴らしき創作作品に未だ出会っていない時分であったため、FF8で描かれる物語と世界観にものの見事に魅入られてしまった。その後、FF7を遅ればせながらプレイしFF5や6も改めてプレイし直した。この時点で、私は「ファイナルファンタジーとは物語(ストーリー)が面白く感動できる」という刷り込みにも近い感情を抱いていたと考えられる。この点は、この後の私のFFライフを決定づけてしまった。当然今回のFF15への感想にも決定的な影響を与えている。
幼い頃に深く印着したものは、その後においてもなかなか摩滅して消し去ることができない。義務教育が重要視される点はここにある。つまり、中学生にして私は「FFとはかくあるべき」という理想像を勝手に抱いてしまったわけだ。これが、もしかしたら巷でよく耳にする「FF病」というものなのかもしれない。

 

当然、送り手側の「FFとはかくあるべき」というFF像は、私とは異なるものであるし、作り手が変わる度、ナンバリングが進む度に変容していくというのは当たり前のことだ。
しかし、高校時代にプレイしたFF9FF10は私のFF像からかけ離れたものでは全くなく、むしろそのFF像を確固たるものにしてしまった。
特にFF10は私のFFの理想像で今でもあり続ける。
当時は特に、物語や世界観の重厚さに圧倒された。物語が進むにつれて謎が絶妙のタイミングとバランスで紐解かれていき、ティーダが祈り子達の夢であったことが判明する場面を頂点に、さながら推理小説の終盤に味わうような極上の興奮を覚えたものである。そして、ユウナの悲壮な決意に泣き、ティーダの勇壮な決意に泣き、ジェクトの慈愛の決意に泣き、ユウナとティーダの運命的な出会いと別れに泣いたのである。「ファイナルファンタジーは泣ける」という思いこみもこの時点で決定的に植えつけられた。
ゲームで涙が流れることのカタルシスは私にエクスタシーを与えてくれた。その感動の絶頂を味わいたいがため、大学に入ると「AIR」や「クラナド」などの所謂「泣きゲー」ジャンルに手をだしまくることになる。娯楽コンテンツで泣ける、というのは人にとって麻薬にも近い愉悦である。ただ悲しくて泣くのは赤子でもできる。楽しみつつ泣ける、という点に成熟した人としての愉悦があるのではないか。
ちなみに、ゲーム音楽の重要性もFF10で再認識させられることになる。「このBGMが流れたら涙が自然と零れてしまう」というような、パブロフの犬のような作用が、FFのゲーム音楽にはある。これもまた、人を「FF病」にしてしまう要因の一つであろう。

 

大学に入学し、FF10-2をプレイし、FF12もプレイした。
FF12の時に初めて自分でテレビを購入し、ブラウン管を卒業したことを覚えている。身近な家電もFFのために新しくするとことが私の中で半ば儀式と化していた。FFの宗教化とも言えるのではないだろうか(昨今のFF論争も宗教論争に近い)。今回もFF15のためにPS4を購入した。
FF12に関しては、何となく従来のFFから路線が変更されたように感じられた。
私はゲーム専門家ではないので、何がどう変わったのかを明確に言語化することはできないが、ストーリー面がやや貧弱に感じられたのだ。しかし、広大なマップに新しいFFを感じたし、物語も貧弱には感じられつつも王道路線でFFらしさを感じなくもなかったので全く悪い印象ではなかった。マップ探索に時間を割いた分、相対的にストーリーが薄味に感じられたことも十分に考えられる。この点はFF15を考える上でも重要なことかもしれない。
一方で、「FFが面白くないなどありえない!」という狂信的な信頼があの頃の自分にはあったという点は看過できない。今現在の年老いた自分がFF12をプレイしたら、また感想は違ってくるのではないか。

 

大学院に進学し、FF13をプレイした。
この頃になるとネット文化にすっかり親しみ、FF13への批判も多く目にするようになった。ネットの影響が私のFF観にも及んでいることは疑いようもない。自分の意見を持とうと思えば思うほど、他者の意見に振り回されているのは免れ得ない事実だ。
私も確かにFF13の一本道には単調さを感じたが、それでも「ファブラノヴァクリスタリス」という壮大な世界観にはFFらしさを強く感じていた。物語の壮大さもまた、私の勝手な理想のFF像には必要不可欠であった。小難しい専門用語や綺麗にたためていない壮大な大風呂敷は、強い批判を浴びていたようだが、個人的には13の世界の壮大さを象徴するもののように感じて嫌いではなかった。関連作品のFF13-2FF13-3(ライトニングリターン)、零式など、当ブログでも色々と感想を垂れ流したが、それだけエネルギッシュな作品であったことは確かである。普通は感想を書こうと思いもしない。先に述べておくが、FF15もそれだけの熱量を有した作品である。
FF13という作品が、良くも悪くも自身に影響を与えたのは、ライトニングさんの存在である。女性が主人公というのが個人的には良かった。私はRPGでは必ずパーティを女性中心にする性癖があり、FF10-2ではユウナが主人公であるだけでなくパーティ全員が女性であることに歓喜していた。FF13においては、格好良くてクール、それでいてお茶目な面もあるライトニングさんに私はゾッコンであった。だからこそ、FF13シリーズで幸せな結末(といっていいだろう)を迎えたライトニングさんを見れただけで満足してしまった。「終わり良ければ全て良し」とは何とも身も蓋もない言葉であるが、様々な(私にとっての)問題点を有耶無耶にする勢いがFF13の関連作品にはあったのである。

 

前置きが長くなった。

今年11月、FF15がついに発売された。
私ももう大分歳をとった。歳を重ねても大好きなFFが発売される。これほどうれしいことがあるだろうか。この嬉しさを味わえるだけでも本来は感謝しなければならない。自戒を込めて。

 

今年は仕事で忙しかったこともあり、事前情報はあまり仕入れていなかった。
映画(キングスグレイブ)やアニメ(ブラザーフッド)も全く見てなかったので、思い切って「フィルムコレクションbox」を購入した。お値段は2万円……かなり高い。だが、それだけの価値がFFシリーズにはあると信じて購入に至った。

 

プレイする前に、映画とアニメを視聴することにした。
物語を重視する私にとって、これは必須の作業だと思ったからである。思いのほか時間がかかり、ゲーム本編を始めたのは深夜であった。

 

ゲームを初めてすぐ、映画を観ておいてよかったと感じる場面に遭遇する。ルシス王の息子への最後の言葉だ。ここから始まる冒険と、王子の行く末にワクワクがとまらなかった。

 

そして次の場面に移ると「stand by me」が流れ出す。
この曲はエンディングでも流れる。冒頭でこの曲を流すことで、エンディングの演出を効果的に盛り上げ、この曲の歌詞もまたエンディングで深い意味合いをもって捉え直すことが可能となる。ただ、既存の曲であることに親近感を覚えつつも、歴代のFF作品が持つ特徴的なBGM、唯一無二なBGMというものが消えてしまったようにも感じられた。さらに言えば、この曲の歌詞を知っている人は、何となくFF15の結末が読めてしまうことにもなる。

 

ハンマーヘッドに辿り着き、愈々ノクティスたち四人の旅が本格的に始まる。
ノクトを自由に操作できるようになり、プレイヤーはまずその世界の広さに驚愕することになる。私も歩き回れるマップの広さに驚いた。オープンワールドというやつなのだろう。歩き回ったり、車でドライブしたり、チョコボで快適に走ったりと、FF15の冒険感はこれまでのFFにはない革新的なものであった。景色を見ているだけでも楽しく、プロンプトの写真機能がそれを上手く引き出していたように感じる。

 

印象的だったのは、異常なまでに夜が怖いということである。
FF15の世界では夜になると「シガイ」というモンスターがどこからともなく現れる。シガイ戦闘時のBGMも怖い。夜は元来暗く怖いものであることに改めて気が付かされるのである。ネオンが煌く現代社会にいるとついつい忘れてしまうが、人とは生来的に夜を畏怖するものである。現代人は文化の発展とともに、夜を置き去りにすることが一見可能になった。一方で、FF15では物語の進展とともに夜が長くなる。現代社会へのアンチテーゼのようにも感じられた。

 

戦闘もまた従来のFFとは異なり、新鮮味を感じた。
全面に押し出されるのはアクション要素(ウェイトモードなどもあるが)。アクションが苦手な私は、慣れるまで結構時間がかかったが、「シフト」に象徴されるアクション行動の爽快さは見事であった。戦闘が楽しいというのもオープンワールドでは重要なポイントになるのだろう。

 

広大な世界と爽快な戦闘。

この二つの要素で、FF15の前半は最高に楽しめた。
事実、時間を惜しまずマップの隅から隅まで歩き、サブクエストやモブハントも受注できるものはすべて受けた。3章にしてレベルは90を超え、プレイ時間も70時間を軽く超えていた。仕事から帰り、寝る時間を惜しんでプレイした。FF15中心の生活であった。

 

ストーリーはというと、70時間の時点でまだ3章なのでほとんど進展はない。
しかし、冒頭の3章の時点でこんなに面白いのならばと、俄然この後のストーリー展開に期待がわく。私が勝手に抱いていた「FFは物語が面白い」という狂信めいた確信は、革新を遂げたFF15にも当然向けられていたのである。

 

水都オルティシエについた頃から、物語も終盤の匂いが漂い始めた。
物語は全く深みを見せていない。キャラの掘り下げも全く行われていない。不安がちらっとよぎる。

 

「これ、どうやって着地するのだろう」

 

この私の思いには、一抹の不安とともに、とんでもない期待が込められている。
想起するのはFF10。大どんでん返しだ。想像だにしないエンディングを俄然期待することになる。9章の時点であまりにも大風呂敷をたためていないので、その異様さがむしろ逆に尋常ではないほどの期待へと変容していた。今となってはFFへの妄信ぶりに、自分のことながら驚くばかりである。

 

結末を迎える日が来た。

土曜日になれば一日中プレイできる。土曜日を使ってエンディングまで到達してやろうと意気込んでいた。物語には流れというものがある。個人的にはその流れを切らないで一気に楽しみたい。小説なども一気に読むタイプである。FF15も同様の手法をもって、一気にクリアを目指し、その勢いの力も借りて感動してやろうという目論見であった。

 

そして、リヴァイアサンを倒すぞ!という所から一気に物語を進める。
王の剣も全て取った。ダンジョンも行けるところはすべていった。サブクエもモブハンも粗方片づけた。残りのコンプ系はクリア後にじっくりやろう。思い残すことはない。広大な世界も爽快な戦闘も十分堪能した。

 

 

 

さぁ!

 

 

最後はFFの金字塔…

 

 

「物語」を堪能する番だ!

 

 

そして、

 

 

物語は進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――私を置き去りにして進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多くのことがあった。ルナフレーナが死んだり、イグニスの目が見えなくなったり。
でも、私の琴線にはふれなかった。もう歳なのだろうか。
彼女らの死や傷害がとってつけたようにしか感じられなかった。
映画やアニメを見て彼らのパーソナルな部分も見てきたつもりである。見てこれである。見ていなかったら…と考えたくもない。映画やアニメの視聴は当然必須ではない。「これらを見ていれば、より一層FF15の世界に浸れますよ」ということだったはずだ。

 

13章はストーリーに関係なく苦痛だった。

ひたすら長い上に、ホラー要素がある。ホラーが苦手な私は足にしがみついてくる魔導兵にびくびくしながら歩を少しずつ進める。
この章は、仲間の重要さや仲間との絆を、プレイヤーに身をもって知らしめるために設けられたのだろう。その意図はわかる。だが、そのやり方がいささか強引だったのではないか。仲間との絆は、歴代のFFがこれまで取り扱ってきた重要なテーマであるが、今回のような手法をとらずとも見事に描いてきた。新しい挑戦として評価すべきなのだろうか。体でわからせるようなやり方に賛否が生じるのは当然だろうと私は思う。
押し付けられた仲間の絆なぞ、いらない。途中で3人が合流して、確かに私は心底ほっとしたが、それは別に彼らでなくてもほっとしただろう。単純に一人じゃ心細いからだ。彼ら3人じゃなきゃならない理由が、ここに至るまでに深められていたかどうかは正直疑問である(私の洞察力がないだけかもしれないが)。
70時間も一緒に旅を続けていれば彼らに愛着もわく。ただ、ストーリーを追うだけならば、70時間も必要ではなく、10時間かそこらでクリアも可能であろう。その場合の彼らへの愛着はどうなるのか。10時間でクリアしようとしたプレイヤーがこのFF15のストーリーをどう感じたのか。是非とも、ご感想を拝聴したいところではある。

 

そして、その後の物語も私を置き去りにどんどん突き進む。

ノクト達はナイスミドルになり、帝国は勝手に崩壊する。帝国との全面戦争を覚悟していた私の気持ちはどこへ向ければいいのか。イドラに一言も言ってやれない切なさよ。
そして、こいつ怪しいなぁと最初から匂わせていたアーデンがそのままラスボスとなり、ノクトは世界を救うためセカイ系のヒーローよろしく、その命とともに世界を救う。いつの間にか、ルシス王国の未来から世界の未来へと救うべき対象が変わっているのだ。

 

そしてエンドロール。「stand by me」とともにこれまでの冒険を振り返る演出。
はっきり言って悪くない。悪くないのだが…。
「stand by me」の切ないメロディが、FF15は従来のFFでないことを改めて私に告げてくるのだ。そしてエンドロールを見ながらふと思うのである。
FF15のテーマとも思えるBGMってあったっけ…この曲は印象的だけれども、オリジナルFF曲じゃないしなぁ…」と。
ドライブ中に歴代FFの名曲を聴けたのは素晴らしい試みだった。ドライブの楽しみにもなった。しかしそれ故に、FF15の曲への関心が自分の中で相対的に薄れてしまったことも事実である。15にも素敵な曲はあるにもかかわらず。
そして最後に流れる「stand by me」。聞いたことのある良曲が、良曲ゆえに私の胸に虚しく響いているのである。

 

しかし、ここにおいて私はまだ期待を捨ててなかった。
このエンドロール後の場面転換で、印象的なワンシーンがあるのが「我らがFF」である。
このワンシーンの出来こそが「終わり良ければ全て良し」に繋がり得る。

 

くるか…くるか…

 

きたあああああああ!!!!

 

暗転からキャンプの場面。彼らの外見からして、ルシスに向かう前の最後のキャンプだろう。
ノクティスは大事な仲間に自分の思いを告げる。

 

「覚悟はきめてきたつもりだ。でもやっぱつれぇわ。そんでもっておまえらのこと大好きだわ」

 

……的なことを言う。そして「Fin」の三文字が。
うん…うん…悪くないと思う。せやけど、せやけどぉ。
(蛇足であるが、「好き」ではなく「大好き」にセンスのなさを感じてしまった次第)

 

終盤は勢いでなんとか魅せようとしたが、勢いで何ともならなかった印象。
そもそも、これは私の性癖に問題があると思うが、男四人旅の時点で感情移入ができなかったのだと思う。個人的には、男女間の恋愛感情や親子間の愛情のほうが物語に没入しやすい。FFで友情にここまでスポットをあてたことは評価すべきであると思うが、これは個人の嗜好の問題なので如何ともしがたく。「FF病」と言われても仕方ないと自分でも思っている次第。

 

同様に、物語の良し悪しに固執しすぎであるという指摘にも私は反論できない。
FF15の挑戦的姿勢には素直に感服する面もある。実際に、広大な世界と爽快な戦闘は本当に面白かった。ゲームとして単純に楽しめた。

 

しかし、問題は私のFF像にある。「FFは物語ありきだ」という自分勝手な思い込みに。私個人の問題に帰することは十二分に理解している。だから、冒頭で断ったのである。これは「感想」であると。便所の落書きであり、鬱憤をただ吐き出したかっただけである。

 

クリア後、私は寝付けなかった。

頭の中がもやもやして仕方がなかった。眠れない目で、ネットのFF15関連記事を見て、自分と似たような感想を読んで、溜飲を下げたりしていた。「FF病」ここに極まれりといったところだろうか。

 

FF15でポカンと空いた空虚な穴を埋めたくて、ポケモンサンムーンを始めた。
ポケモンも初代からプレイしている。サンムーンでは初代のポケモンが多く登場し、初代のネタが散りばめられていたりする。古き良き王道の展開、だけれども感動できる何かがある。
ファイナルファンタジー」もまたポケモンと同じく国民的ゲーム(RPG)だと私は思っている。未だにも思っている。幼い頃に影響を受けたFFの偉大さは、自分史において否定しがたく(FFを否定してしまうと幼い頃の自分をも否定することになる)、それ故にFFに固執し続けてしまうのだろう。

 

ポケモンに続いて、FF14にも復帰した。
FF14もほとんどログインすらしていない状況であったが、今回のこともありストーリーだけは追っておきたいと思ったからだ。
今パッチは、主人公たる光の戦士(プレイヤー自身)の対となる闇の戦士のお話で、彼らにも彼らの正義があり、彼らの悲痛な叫びに、思わず涙した。FF14とも長い付き合いになるが、私の理想とするFFらしさが14には残っているように感じた。
「感動=FFらしさ」というとこれもまた身も蓋もないが、究極的には私はそれに尽きると思っている。過程はどうあれ、最終的に感動できれば私はFFに満足できる。他の人のことは知らない。私がFFをどう思うかでこれまでバカみたいな文字数をかけて感想を垂れ流してきた。

 

この幼稚な感想文を読んで、私と同じように溜飲を下げてくれる方がいらっしゃったのなら、それに勝る喜びはない。