最後のマルマル

アニメ・ゲーム・声優などに関する我楽多雑文。研究者兼大学講師をやってます。

『NieR:Automata(ニーアオートマタ)』クリア後感想

本当に、本当にありがとうございました。

※以下、「ニーアオートマタ」のネタバレ含みます。ご注意ください。

 

 

 

「ニーアオートマタ」、クリア!!
とりあえず、A~Eエンディングは見れました!F~ZのBADエンディングは全部は見れてません。といいますか、白旗あげている機械生命体を全滅とか、仲間を見捨てる、とかそういうのが精神的につらくて中々自分ではできませんでした。でも確認はしたいので、プレイ動画で視聴しちゃったり…。

クリアしての感想ですが。

「本当に、本当にありがとうございました(二回目)」

って感じです。

昨年、待望のFF15をプレイし、そのストーリーに物足りなさを感じたことは、当ブログの感想記事にも書いたことですが、その物足りなさを払拭してくれたのが、何を隠そう「ニーアオートマタ」でした。

ディレクターの横尾太郎さんのことは、昔から知ってはいました。
とは言っても、「鬱ストーリーを書く人」、程度の認識です。
ドラッグオンドラグーン」のゲームも名前だけは知っていました。ゲーム屋さんにいって、パッケージ裏の簡単なゲーム紹介を見て、「私には合わなそう…」、そう思い込んで食わず嫌いをしていました。若い頃は、あまり鬱的な話は得意ではなかったのです。

それが、歳を重ねるにつれ、鬱的な話にも耐性ができてきて、むしろ絶望的かつ救いのない物語や退廃的な世界観に心焦がれる、そんな〇〇な人間に育っていきました。
思えば、同人活動をしていた時も自分が作る話は、いじめの話だったり救いのない話だったりで、そういうものを表現すること(自慰行為)も好きでした。
するとどうでしょう!横尾さんのゲームは私にとって「神」がかり的に嵌ってしまう、電子ドラッグのような存在だったのです。

ニーアレプリカント」を体験し、それは確信に変わりました。
そして、「ニーアオートマタ」でFF病ならぬ、横尾病に私は罹患してしまいました。

もう、本当に面白かった。
これなんですよ!
私がRPGに求めているのは、練りこまれた世界観と息もつかせぬ怒涛の展開ストーリー!
プレイし終わって、しばらく虚空を見つめて余韻に浸れる幸せ。

救いがなさすぎる、けれども救われる。
オートマタとはそんな作品でした。

人とは?生きることとは?
そんなことをこのゲームは我々に問いかけてくるのです。
ゲームでやることではない?
いや、ゲームだからこそ考えさせられるのです。

人を選ぶゲームでしょう。
万人受けはしないのでしょう。
でも、私には超絶マッチングしました。
合う人には合う。
合う人には、是非とも出会って欲しい、そんな作品です。
「合う」のに「会え」ないことが何よりも救いのない話だとは思いませんか。

ゲーム性も優れていると思います。
私はアクションが苦手なので「イージー」で楽しみましたが、それでも、(下手くそ故の)手に汗握るスリリング&スタイリッシュアクションを思い存分堪能できました。

そして、ニーア作品を語る上で外せないのが、音楽の存在。
レプリカントの「カイネ/救済」など、当該作品をプレイしたことがない人でも知っている程、音楽には定評がありましたが、オートマタもまた素敵な音楽に彩られていた作品でした。
廃墟都市のBGMやEDの曲などは、今でもエンドレスで私の頭の中で流れ続けています。

オートマタの何が私の琴線に触れたのかというと、やはり「アンドロイド」というテーマでしょう。
人間ではない人間もどき。
そんな、人間もどきが、人間のような感情を獲得する描写に、私は本当に弱い。
アニメで言うのであれば、「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希であったり、「魔法少女リリカルなのは」のレイジングハートバルディッシュだったり。

私は人間嫌いなのかもしれませんが、人間が備えている根源的な美しさのようなものに惹かれ憧憬します。とても危険な香りがしますが、俗世であまりにも汚いものを見すぎているせいで、そこへの希望はもはや信仰の域にあるのだと思います。
「人間としての美しさ」のようなものは、人間ではない人間もどきだからこそ、獲得出来得るのではないか、そのようにも考えてしまうわけです。

Eエンドにおいて、これまでずっと2Bや9S、A2、そしてプレイヤー自身たる我々と行動をともにしてきたポッド達が、自我及び感情を持った場面は、もうアドレナリンが出すぎて逝きかけました。人間ではない彼らだからこそ、何かを託せる気がしてならないのです。

サブクエストも本当にこなしていて楽しかった。
物語をより深く理解できるように工夫されていて、そのために必死になってクリアしました(現段階で58/60まで消化)。
「とりあえずこなしておくか…」なサブクエが多い中、オートマタのサブクエは「一つも見逃せない!」という思いに駆られる良コンテンツでした。
そのサブクエストも救いのない話が多く、多くの人(生命体)が死んでいきます。基本的に、この作品は「死」のオンパレードなのですが、その全てが決して軽々しい「死」ではないんですよね。誰かの「死」に直面する度に、その「死」について考えてしまう、そのように誘導させられている気すらします。
人類ではない、機械生命体やアンドロイドたちの「死」だからこそ、考えさせられる余地があるのだと思います。キャラクターのレベル(Lv)はそんな彼らの「死」の蓄積であることもまた、「強くなる」「成長する」「生きる」ことに対する何らかのメッセージ性を感じずにはいられません。

 

 

 

以下に列挙したのは、某ゲームアカウントに投稿したニーアプレイ中の感想です。当時の私の興奮っぷりが見て取れます(笑)。

 

レプリカントもオートマタも、人間もどきが人間ごっこして、人間らしく生きようとするところに、人間味を感じます。」

「人をその「人」たらしめているのは、魂か感情か。レプリカントとオートマタで描かれる「人間とは?」という主題を総体的に捉え直す必要がありそうです。」

「個人的にヨコオ作品で重要なのは「感情」な気がしております。」

「動物なども持っている「情動」ではなく、「感情」。感情が生来的なものか、社会的に作られるものなのか、これも感情心理学方面では諸説あるようですが。」

「「人間は高度に精緻化、体制化された情報処理装置」といった人間観が1960年代に流行したとのこと。これ、まさにオートマタに出てくるアンドロイドや機械生命体なんですよね」

「あとは映画『スタートレック』とオートマタの比較検討が面白そう。これは文章化したい」

 

最近、たまたま「感情」に関する研究をしていて、そことの関連でオートマタがより一層楽しめたのは幸運でした。
なぜ、唐突に映画「スタートレック」の話がでているのかというと、スタートレックに登場した「スポック」の存在を、アンドロイドや機械生命体と重ねて考えていたからです。

スポックは、宇宙人の一種族であるヴァルカン星人と人間との混血児として生まれており、尖った耳を除けばきわめて人間らしく見える存在です。
しかし、その視覚的な類似性の背後には、深い違いが隠されており、人間に似た顔の後ろ側には、私たちよりもはるかに優れる宇宙人としての脳が存在していたわけです。
注目すべきは、ヴァルカン星人には情動が存在しないということ。彼らは、過去のある時点において、動物起源の原始的痕跡たる情動がなくとも十分に生き得るようになり、もはや熱情に駆られることがなくなった結果、超人的な合理性を手に入れました。

情動を欠いた生き物のほうが私たちよりも聡明であろうと仮定することを通して、映画「スタートレック」は、情動を知性的な行為を阻むものとして、あるいは害悪のない贅沢品として捉えていると考えられます。こうした考えは「情動に関する否定的見方」といえるでしょう。

これの対極の見方、すなわち「情動に関する肯定的見方」とは、情動は知性的な行為を起こす上で、不可欠であるという考えです。最近まで、こうした見方は哲学者や心理学者の間ではポピュラーな考え方ではありませんでしたが、今や進化論及び神経科学の考察がこれを強力に後押ししつつあります。

以上の話を、オートマタに当てはめて考えてみると面白いとは思いませんか。
オートマタの「感情」の捉え方は、後者の「情動に関する肯定的見方」に他なりません。横尾さんが、最近の学術的傾向まで把握して世界観を形作っているとしたら、これはとんでもない人物ですよ!

また、そもそもの問題意識として、「コンピュータは意識を持ち得るのか」という大いなる問題があるわけであるが、オートマタをプレイしていると、ふとそんな点にも思考が及ぶことがあります。
人工知能の研究者の中には、あと数百年の間には機械が意識を持つようになると考える人もいるようです。オートマタで起こった事件や問題は、空想のフィクションのお話ではなくなってくる可能性もゼロではないのかもしれません。