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最後のマルマル

アニメ・ゲーム・声優などに関する我楽多雑文。研究者兼大学講師をやってます。

豊崎愛生と西尾維新『囮物語』(講談社、2011年)

小説・ラノベ・漫画


(作品のネタばれはなしです。むしろ今流行りのステマです)

厳密には、「豊崎愛生を好きになることとは―『囮物語』を参考に―」という感じでしょうか。

囮物語』を半分くらいまで読み進めた際、上記の表題で久しぶりに雑文更新できるんじゃないかと息巻いてたのですが、『囮物語』を全て読み終えると「そんなの関係ねぇ!」と精神が如何とも高揚してしまい、分野は違えど文章を生業にしている者として嫉妬の炎と絶望の嵐を巻き起こしていたのですが、折角なので初志貫徹といきます。

いや、全然関係ないですが、化物語シリーズは2ndシーズン入ってからはとみに面白いです。
説教臭くなったと言われればそれまでなのですが、戯言シリーズが好きだった私にはむしろ「どんとこいです」状態です。むしろ、2ndシーズンからの方が西尾さんのやりたい(言いたい)ことだったんじゃないでしょうか。
とは言っても、作者の主張が露骨なわけではないのです。むしろ、その主張に幅を持たせているというか、敢て答え(特定の主張)を明示していないようにも思えます。それは、取りようによっては、読者を皮肉っている、あるいは小馬鹿にしているようにも受け取れてしまう絶妙な表現方法で、です。個人的には、西尾さんはこれを意識的にやっていると思っております・・・いや、願望としてそう思いたいです。

衝撃を受けたのは『囮物語』の内容だけではありません。
実は、上記の作者の主張云々は前作『花物語』を読んだ際に露骨に感じたのですが、その次の作品の『囮物語』の「あとがき」で、その作者の主張云々がテーマとなり述べられておりました。「おいおい、エスパーかよ」とちょっと怖くなったのですが、冷静に考えればそのように思考が促されていたということであり、まさに掌で踊らされていたというわけです。もう、悔しいぐらいに。心酔ではなく、ちょっと悔しく思っていたり、「皮肉っている」「小馬鹿にしている」という感想が自身から出ることに多少安堵しております。角度を変えれば、西尾作品は「名言」とも捉えられる語録の集合体であり、一つのバイブルにもなり得ます。教典があれば、それは宗教にもなり得る。娯楽作品における「信者」という言葉が、抽象的な表現ではなく本来的な宗教的意味を含有するようにもなってきたのかもしれません。

太宰作品のような自身を救ってくれる、自身を正当化してくれる「語録」に西尾作品は満ち満ちています。
物事から逃げることの正当化、自分がその他大勢とは違う人間であると錯覚させてくれたり、などなど。
それに類する一文が次の一文です。

「手の届かないところにいる人間や、架空のキャラクターを相手に恋愛すれば、傷つかずに済むものね」
「絶対に振られることのない相手に恋をするのって、楽だよね」(『囮物語』177頁)

すいません、二文でした。
賢い読者諸氏はお気づきかと思いますが、これで冒頭の「豊崎愛生」さんと繋がります。

よくよく考えたら・・・いえ考えなくとも了然です。
私が豊崎さんを好きな理由そのもの、ではないにせよ、要因の一つであることに疑いありません。
豊崎さんが手の届かない人間であり、ブラウン管の向こうの偶像的存在であることにも疑いはありません。
そして、豊崎さんを好きだというその公言行為は、私にとって楽であり快感でもあったわけです。
世の中には色々難しく思い通りにならないことや嫌な事もたくさんあるけれども、誰かを好きだという気持ちがあれば頑張れる、という千石ちゃんの言葉は実体験からも頷けます。「自分の精神を安定させるため(同上299頁)」という言葉も。

ここで、いちゃもんがつけられるとすれば「絶対に振られることがない」という点でしょう。
豊崎さんに即せば、最近の某氏との同棲問題(真偽はさておき、そのような話題があったという意味での問題)が、結果的に間接的に振られた(失恋した)のではないかという点です。突っ込み所満載の問題点ですが、1万歩譲って「振られた」こととしても、それでもやっぱり「楽」であり「傷つかずに済」んでいると思われます。
これは、実証も糞もありません。もう、実体験オンリーです。面と向かって直接好きな女性に告白し、振られた方(ごめんなさいと自身の耳を通して聞くことの方)がどう考えても傷つきます。比較の問題じゃねーか、という叫びには「そうだね」とニッコリ首肯するしかありません。そんなものは、揚げ足取りにもなってません。豊崎さんに彼氏がいれば、それはショックでしょうとも。でも、実際に直接告白したわけではありません。こちらが一方的に偶像崇拝的好意を寄せていただけであり、一方的に恋愛的な感情を捨てさせられるだけです。一方的だからこそ、あのような拒絶反応や過剰反応になり得たのだとも考えられます。

私が豊崎さんを好きなのは「絶対に叶わない恋に『みをやつして』いるのが、案外楽だったりする(同上227頁)」からだという、西尾さんからの答え(候補)の提示にはすごく納得してしまいました(勿論、そうではないという主張を他キャラクターに述べさせていることは留意する必要があります、幅を持たせるという点は一貫)。
現在の私において「恋愛って、すっごくエネルギーを使う(同上227頁)」点が一番のネックであり、豊崎さんを好きでいた(る)要因の最たる一つ(言葉がおかしい)であると思います。恋愛はしたいけど、面倒くさい。恋愛にのめり込んだら本業が疎かになってしまうのではないか(過去の経験も加え)。『囮物語』の語り部と同様、このような「自分可愛さ」から、豊崎さんを好きでいる自分を好きになってしまった、と断言してしまうとあまりにも失礼でしょうか。その他の要因も、勿論あります。豊崎さんの人間性だったり、唯ちゃんの影響だったり。

結局、上記の要因も『囮物語』に引っ張られての結論だったりします。これが、西尾作品の怖い所なんです。お解り頂けたであろうか(笑)。「信者とはこのように形成されていくのかもしれません」という一部始終を見事なまでに順序よく叙述できたと自負しております。また、見事に自分を正当化することにも成功しております。

わあわあ言ってきましたが、何にせよ、物語シリーズはちょー面白いです。
アニメが面白い!と思っているのであれば原作は見て損はありません。
いや、廻りくどい言い回しはやめましょう。
見ないと月に代わってお仕置きされ、アスカに「あんた馬鹿ぁ?」と言われるレベルです。



一冊1000円を越えるという点は、また別のお話。