最後のマルマル

アニメ・ゲーム・声優などに関する我楽多雑文。研究者兼大学講師をやってます。

柑菜に陥落した、この冬を忘れない


※あの夏の「#10 先輩と僕らの。」のネタばれあります。


ネット経由でアニメ評論家の方のアニメ「ちはやふる」に言及された記事を読みました。
3月10日の朝日新聞夕刊らしいですが。

氏曰く「広く一般に向けたアニメこそがビジネス的に難しい現状」ということ。
ふむ、なるほど。なかなかに刺激的な立論だと興奮しました。

しかし、残念ながら、その内実にまで言及はされておらず。
紙幅の関係上、結論のみの表明で終わってしまうのは致し方ないことだとは思います。しかしながら、「当然」その現状に至らしめている要因など、何かしらの裏付けに基づいた考察があっての結論であるかと思われますので、是非改めてその議論を深めて頂きたい所です。
それは、単純に売り上げなどの量的な視点のみならず、受け手側からの視点が必要不可欠であろうかと思います。
その際、「広く一般に向けたアニメ」ではないアニメとの比較が適当な手段であろうかと愚考しております。

評論家は評論(それらしいことをドヤ顔で述べておけばいい)だけしていれば問題ないというのであれば、ぐうの音もでませんが。

さて、本題は全く関係なく。


アニメ作品「あの夏で待ってる」が個人的琴線にふれまくっているということを、ただただ述べたい。


2012年冬アニメにおいては、「偽物語」が一番の期待株だったわけですが、ところがどっこいそれ以外にも素晴らしいアニメが乱立!という状況に最終的には落ち着きそうです。


中でも「ちはやふる」「あの夏で待ってる」は毎週楽しみな作品でありました。


特に「あの夏」において、今週の「#10 先輩と僕らの。」は謂わば物語のピークでした。主に柑菜ちゃんに思いを重ねる人々にとって。

前回放映時に「今後の主役2人以外の動向が評価の鍵となる予感。一番綺麗(?)なのは三人とも結局上手くいかない。個人的希望としては哲郎×美桜で、柑菜ポツーン。個人的失望としては柑菜×哲郎で、美桜失恋パターン。」という下らない感想を抱いておりましたが、結果綺麗だと思われる(私が思う)締め方でフィニッシュでした。

この締め方についての評価はまさに十人十色だと思われます。
(最終回はまだ(締っていない)!という意見は取りあえず置いといて)

私個人と致しましては、アニメ作品として100点をあげたい。
上記の感想とは矛盾しておりますが、しったことか。

不条理で醜い現実をアニメで写実的に表現する必要なぞ、ない。
恋愛に関するおぞましい程の男女間の現実をフィクション作品で描く必要も、ない。

十人十色とは、アニメという文化メディアを、どのように捉えるかという意味合いでもあるわけです。

私としてはプラスとマイナスの方向性は違うにしろ、現実では考えられない(叶えられない)世界観をアニメには求めたいという強い思いがあります。

その思いから「あの夏」の今週話を照らし直すと、まさにアニメというフィクションメディアに相応しい30分の物語〈フィクション〉でした。
「あれだけの事があって綺麗な人間関係に納まる筈がねぇ!」という醜い私が脳の片隅で叫んでおりましたが、しっかり防音。
(まだ最終回ではないので、今後びっくり仰天の展開が待っているかもしれません。その期待がないわけでもない、そんな矛盾すら楽しめる作品であります)


哲朗君の逡巡がまた、いい味をだしています。
リアルとは違うフィクション性を求めるにしても、そこには微妙なバランスが存在します。
リアルとフィクションとのバランス。
つまりは、現実世界の私達が虚構世界の「彼等」に喚起させられる「共感」。
その共感がなければ、作品を楽しむことはできないといっても過言ではありません。

その現実味を微妙な塩梅で思い出させてくれたのが哲朗君でした。
人間の持つ複雑怪奇な醜さ。それを嫌悪感に直結しない程度に表現することで(これについても個人差があると思いますが)、作品に立体的な深みを与えていたようにも思えます。

そんな哲朗君も最後には柑菜に素直な思いを告げます。
人間の醜さが昇華される瞬間、これぞアニメ〈フィクションメディア〉の醍醐味であろうかと思われます!

そして、視聴者をこれでもかと追い込む、柑菜のターン!


緑豊かな山々を背景に疾走する柑菜。


走馬灯のように浮かぶ、好きな人との想い出。


そして、言葉にできない思いを叫ぶ柑菜。


そして、言葉にしなくてはならない思いを告げる柑菜。


その瞳からうかがえる、好きな人に好きだ言える自分への確かな自信。



そうです。
陥落ですよ。

こんな女の子に心が震えないなんて私じゃない。

そして、心は穏やかでもあった。
まさに、鉋掛けで滑らかにされた材木の如く。

私は素直に負けを認め、楽になったのであった。 <完>