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最後のマルマル

アニメ・ゲーム・声優などに関する我楽多雑文。研究者兼大学講師をやってます。

西尾維新『少女不十分』(講談社、2011年)を読む


以下、ネタばれ注意。
この注意ってのは、結局はただの自己満足じゃねーかと誰かが仰ってました。
でも偽善って素敵やん。

 

 




先に『悲鳴伝』(講談社、2012年)も読んでいたのですが、その直後に読んだ『少女不十分』(講談社、2011年)の方が圧倒的に面白かったです。

あくまで個人的な見解ですが(これも自己満足な前言い訳なんですけど)、もう1頁目から面白かったです!終盤、特に最後の最後の部分(10年かかったの意味が判明する箇所)に焦点が当てられて然るべきだと思いますが、序盤も中盤もクライマックスに面白かったと感じたのも嘘偽りない思いです。それはひとえに、私の読書量(小説)の少なさに因るものであることは今更言う必要もあるかと思いますので、言っておきます。

面白いというのは、共感からくる肯定的感情とでもいいましょうか、物書きの端くれとして共感せずにはいられない面白さでした。映画『おもひでぽろぽろ』を大学院進学後改めて見た時と同じ感覚。とはいっても、作品に感情移入しているだけで、西尾さんに感情移入しているわけではない、と結論的にはそうなってしまうのですが。

裏カバー文面の「これは小説ではない」「これは昔の話であり、過去の話であり、終わった話だ」などの記述や、オビの「この本を書くのに、10年かかった」の煽り文句から西尾さんの自伝であることを期待させ、さらに作品内の語り部も小説家であり、年齢や仕事量なども西尾さんと重ね合わせることができるため、その期待をさらに深める。途中の描写で「いや、ないな」と冷静な自分がいつつも、「西尾さんならあるいは・・・」という淡い期待がありつつ、結局は最後の頁の「柿本先生」で「やっぱちゃうんかい」と。

いや、でも冷静に考えたら、全ての作品は「自伝風な何か」であることは免れ得ないのではないでしょうか。自分と言う何かしらの価値観であったり、経験であったりが作品に反映されなければ、物語にはならないわけですから。ただの文字列が偶然意味をなしているという可能性も非天文学的数字パーセントぐらいはあるかもしれませんが。
ブリーチ風に言うのであれば「『少女不十分』が西尾維新の自伝ではないと何時錯覚した?」ということが、非天文学的数字パーセントくらいは言えるのではないでしょうか。信じるって素敵やん、と誰か偉い人も大阪弁で言ってた気がします。

そう考えると、少なくとも似たような経験はしたのではないかという妄想もたくましくしてしまうというもんです。私も根っからの西尾さん信者ですので、彼が空々君の如く英雄で、羽川さんの如く天才であることに何の疑問も持たないのであります。まるで小説の世界で起きるような劇的な何かを経験していてもおかしくないと、まるで虚構の世界の住人のように彼を見てしまっている私がいます。

と、言ってる側から、西尾さんには「真っ当な人間」であって欲しいと願う私も「当然」いるわけです。私はAB型ですので、Bの私が言ってるような気がします。若い頃はAB型であることに自分はとても利便を感じていて、人間らしい矛盾が自分の中に生じた時もAB型だからと妙に納得して清々しい思いをさせて貰ったものです。今考えれば、それはAB型のせいではなく、人間だから普通のことなんですけれどもね。若いって素晴らしい。

つまりは、私は所謂普通の人間ですので、西尾さんに西尾作品の登場人物の如く「一般的ではない人間」「頭のおかしな人間」「異常を抱えた人間」「恵まれない人間」であって欲しいと思うとともに、「真っ当な人間であって欲しい」と、当然の権利のように思うのです。
正直、西尾さんが『少女不十分』の僕(小説家)のように真っ当な人間ではないとしたら、私はがっかりするどころの話じゃありません。「真っ当な人間」が「異常な人間」を描くからこそ興味深いわけで、真っ当な人間ではない人が「異常な」作品を書くのは何の捻りもないごく普通の作業じゃないですか。それこそ、自伝を書くが如く。

そのため、「これは西尾さんの自伝なのかも」と淡い期待を抱く一方で、「自伝(自伝をアレンジしたものなら良し)だったらがっかりだな・・」という何とも不思議な、いや人間らしい感想を抱いておりました。結果、その思いは裏切られたわけですけど。Aの私はちょっとがっかりしたんじゃないかな。最後まで読まなかったら、知人に「西尾さんに冷めてしまった」とドヤ顔で悪口を垂れていたかもしれません。まるで、地獄のミサワ作品の登場人物の如く。


精神年齢が若いと自負している私のあるがままの感想を一言でビシッと格好つけさせて頂けれるのであれば「少女不十分は現代の人間失格である」と地獄のミサワ作品の登場人物の如く言ってみたいです。具体的にはキョトーン顔で。「え?誰が読んでも普通はそう感じるよね?」的なキョトーン顔で。別に深い意味はありません。精神年齢が若ければ若い程、簡単に共感してしまうと共に自分の特異性をも恣意的に見出し、悦に浸ってしまうのではないかという意味です。何か、太宰の『人間失格』そのものを貶してしまっているようであれですが。貶すべきは、本に限らず須らく受け手の方だというのに。


誰もが印象的に感じるであろう例の文章。


「物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話だった。異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話だった。」


と、暗に自身の作品群のテーマを要約してくれたような箇所がありましたが、これが大変有り難かった。西尾作品に共通して感じていた自身の羨望的感情の意味がこの要約で漸くわかりました(西尾さんぽいぜ)。

そうなんですよね。もう、羨ましいぐらいにハッピーエンドなんですよね。
「一般的ではない」「頭のおかしい」「異常を抱えた」だけでも、主人公補正なのに、それでそのまま幸せになってしまうんですもの。一体どれほどの人間が、「一般的ではない」「頭のおかしい」「異常を抱えた」人間を目指していて、そして現実を知り普通の人間でいることに妥協することとなったのか。普通の人間でいることに何とか納得することに成功しても、幸せであることに納得できない人さえいるというのに。

西尾作品の登場人物達は、その点で結局はどうしようもなく虚構の人間、あり得ない人達なんですよね。そんな羨望の眼差しの対象である彼等を、さらに幸せにしてあげてしまうなんて、何て人間愛に溢れた先生なのでしょう。そんな御方が真っ当な人間でないはずがありません。あ、西尾先生ではなく柿本先生でしたか。


毎回、西尾作品の感想を書く度に思うのですが、この人の作品の感想は書くもんじゃないです。ハッキリ言って損にしかなりません。何を書いても手の上で転がされているようにしか思えません。唯一の対抗手段としては、こちらも小説を書いて、作品上で言いたいことを書き殴ることだと思うのですが、まともな人間の私には出来そうにもありません。くそぅ。

もし、時間軸の異なる異世界で私が小説家になるような世界線があって、西尾さんと対談させて頂くようなことがあっても、死んでも彼の作品を読んだとは言いたくありません。




だから、対談会場に着いたら言ってやるんです。







「初めまして」